長野県の水産年表

本ページでは、表にて長野県の水産歴史情報を見やすく表示させております。文献(長野水産史)の年表や長野県水産試験場様からの提供の情報をもとにデータを作成しておりますので、ご関心のある方に見ていただけると幸いです。

なお、表の情報には、魚種ごとのフラグメンテーションが行われておりますが、”信州サーモン”や”信州大王イワナ”につきましては、河川への放流を行っておりません。養殖魚の年表としてご覧いただけますと幸いです。また、本情報はより見やすい情報を提供できるよう今後可能な範囲での画像導入を検討しております。

情報元:長野県水産史、長野県水産試験場提供情報、長野県水産試験場公開情報(シナノユキマス物語。水産だより、歴史情報他)

※モノクロ写真をカラー化した画像になります。

年表

年代    西暦  和暦   項目魚種        情報元  
1860年代1868年明治元年江戸を東京と改めて遷都、明治と改元する県漁連
1870年代1871年明治4年南信地方飛騨をふくめて筑摩県となり、北信地方は長野県となる県漁連
1870年代1872年明治5年上州富岡に国営機械製糸場を作ったのをきっかけとして県下の製糸業が勃興する県漁連
1870年代1873年明治6年長野県特産物調査を行う、川魚の売上高10,770円余県漁連
1870年代1873年明治6年下伊喬木村の長谷川三友が、製糸工場に養殖鯉池を付帯設備する。その後、松代・下伊座光寺等に養鯉業者が製糸場を経営して蚕蛹の自給をはかるものが現れるコイ県漁連
1870年代1875年明治8年河湖固有となり、旧藩時代の地先漁業権をはく奪して沿岸住民に開放、漁業鑑札制となる県漁連
1870年代1876年明治9年飛騨を除く筑摩県と長野県が合併し、現在の長野県ができる県漁連
1870年代1876年明治9年諏訪湖畔にひらかれた展覧会に「氷魚漬」を出品するものがあり、湖魚加工の先駆となるサケ県漁連
1870年代1877年明治10年この頃、松代の士族で養鯉が盛んになるコイ県漁連
1870年代1877年明治10年戸倉付近の千曲川につけ場宴を張るものが現れるウグイ県漁連
1870年代1879年明治12年県:営業雑種税の中に漁業税を設け、独立漁業者が出現する県漁連
1870年代1879年明治12年県:全県下の漁具、漁法を調査し、一部漁法の制限を実施県漁連
1870年代1879年明治12年県:諏訪湖の蜆(しじみ)を野尻湖に放つシジミ県漁連
1880年代1880年明治13年県:上伊南箕輪村に養殖場を作り越後三面川の鮭卵を孵化養成の上天竜川に放流サケ県漁連
1880年代1880年明治13年県:上高綿内村に採卵場を設け千曲の鮭を親魚として採卵、孵化養成の上千曲川に放つサケ県漁連
1880年代1880年明治13年県:鮭卵を琵琶湖に送って"あめのうお(ヤマメ)"稚魚と交換、それを野尻湖に放流するサケ、ヤマメ県漁連
1880年代1880年明治13年県:これらの事業について明治天皇に上奏する県漁連
1880年代1880年明治13年この頃、松代にスッポン養殖が盛んになるスッポン県漁連
1880年代1881年明治14年松代の士族らが集まり養鯉販売会社を設立、間もなく失敗するコイ県漁連
1880年代1882年明治15年県の漁業税収入17,935円県漁連
1880年代1884年明治17年松代の鈴木市兵衛が大日本水産会報に水田養鯉についての研究発表を行い注目を集めるコイ県漁連
1880年代1886年明治19年漁業組合準則が制定される県漁連
1880年代1887年明治21年この頃、諏訪湖の漁業が繁盛する県漁連
1890年代1890年明治23年南佐桜井村に東信鯉魚飼養会社を興し東京進出を策する傾向ありコイ県漁連
1890年代1892年明治25年この頃、下伊座光寺村に新田開発と養鯉との結びつけを行うものがみられるコイ県漁連
1900年代1901年明治34年はじめて漁業法制定がされる県漁連
1900年代1902年明治35年長野県で初めて漁業取締規則を制定する県漁連
1900年代1902年明治35年行業法に依る区劃、定置漁業権の出願者が県に殺到する県漁連
1900年代1902年明治35年野尻湖に区劃漁業権を免許される県漁連
1900年代1903年明治36年県農会、水田養鯉が盛んであるため、稲作りが二の次に考えられていることに警告を発するコイ県漁連
1900年代1905年明治38年日露戦争のため生産増強呼びかけられ養鯉生産・河川湖漁獲共に増加するコイ県漁連
1900年代1907年明治40年全国養鯉生産額 389,838貫のうち長野県 90,000貫を占めるコイ県漁連
1900年代1908年明治41年本県最初の漁業準則組合として仁科三湖(青木湖・中綱湖・木崎湖)漁業組合が組織される県漁連
1910年代1910年明治43年漁業法を改正し、知事の認定に依って法廷漁業組合員の漁業税を免除し得ることになる県漁連
1910年代1911年明治44年南左桜井村農会、水田と池中養鯉の経営分析を行うコイ県漁連
1910年代1912年大正元年諏訪湖漁業組合ができる県漁連
1910年代1912年大正元年本県の養鯉生産額が日本一になるコイ県漁連
1910年代1913年大正2年諏訪湖組合共販制を設ける県漁連
1910年代1914年大正3年この頃鯉仔売りが盛んになるコイ県漁連
1910年代1915年大正4年諏訪湖組合:霞ヶ浦から初めて公魚(ワカサギ)を移植し、失敗するワカサギ県漁連
1910年代1915年大正4年諏訪湖組合:琵琶湖の小鮎卵を移入、人工孵化に成果を上げるアユ県漁連
1910年代1916年大正5年諏訪湖でわかさぎ移植に成功する。ワカサギ県漁連
1910年代1916年大正5年県:諏訪湖、木崎湖組合員の漁業税を免除し組合活動を助力する県漁連
1910年代1916年大正5年諏訪湖組合専用の漁業権を免許される県漁連
1910年代1916年大正5年この頃から水田、池中での養鯉とも大きく発展するコイ県漁連
1910年代1919年大正8年諏訪湖:琵琶湖より淡貝(カラスガイ)を移植するカラスガイ県漁連
1910年代1919年大正8年県:農商課の中に初めて水産係が設けられ、水産行政推進に向かう県漁連
1910年代1919年大正8年大同電力木曽川に進出し県下で最初の全瀬〆切ダムをつくる県漁連
1910年代1919年大正8年認意団体として長野県漁業連合会が結成される県漁連
1920年代1920年大正10年農林省、木崎湖に水産講習所木崎養魚試験場を作りマス類の養殖試験を開始する県漁連
1920年代1920年大正10年上小地方に曲水漁業連盟が組織され、河湖魚の保護運動を起こす県漁連
1920年代1921年大正11年大同電力木曽川の漁業補助金を寄付し、県下の発電補償が始まる県漁連
1920年代1921年大正11年県:大同の補助金以って福島町新開に孵化養魚場を設け河川放流を目論む県漁連
1920年代1922年大正12年県:漁業取締規則を改正し許可漁業制度を設ける県漁連
1920年代1923年大正13年南佐久の養鯉業者東京への共同出荷所"野沢屋"を築地に設け、佐久鯉の名前がはじまるコイ県漁連
1920年代1924年大正14年奈良井川で水覗眼鏡を禁止せよの声が起こる県漁連
1920年代1924年大正14年この頃、法定の地域漁業組合相次いで結ばれる県漁連
1920年代1926年大正15年県営犀川ふ化場(現本場)として東筑摩郡中川手村に設置水試沿革
1920年代1927年昭和2年漁業組合準則に依り長野県漁業組合連合会が創立される県漁連
1920年代1927年昭和2年明科に県営魚類増殖場が発足し各種魚類の付加放流が始まる県漁連
1920年代1927年昭和2年琵琶湖稚鮎の放流が始まるアユ県漁連
1920年代1927年昭和2年上小組合:うぐいの人口孵化をはじめるウグイ県漁連
1920年代1927年昭和2年全県下にワカサギブームが起こり、諏訪のワカサギ卵が村々のため池に放流されるワカサギ県漁連
1920年代1927年昭和2年犀川上流組合と千曲川組合との間に初めて漁業協定が結ばれる県漁連
1920年代1928年昭和3年長野県明科魚類増殖場と改称水試沿革
1920年代1928年昭和3年この頃河川湖漁獲がどん底に落ち込み生産 100,000貫台を割るコイ県漁連
1920年代1928年昭和3年国鉄に活魚車が登場し本県の鯉が東京進出に曙光を認めるコイ県漁連
1920年代1928年昭和3年鯉価格維持のため県は補助金を出して蓄養池設置を推奨するコイ県漁連
1920年代1929年昭和4年県:増殖推奨均制度を設ける県漁連
1920年代1929年昭和4年木曽谷のニジマス卵養殖業が興るニジマス県漁連
1920年代1929年昭和4年木崎養殖場水産試験場となる県漁連
1930年代1930年昭和5年新潟県下の組合から、海から遡上魚減退につき協力して政府に対策を迫りたき旨を求め来る県漁連
1930年代1930年昭和5年発電所の建設が盛んになるにつれ、河川水利使用許可前に漁民の意見を行くよう県漁連が県に依頼をする県漁連
1930年代1930年昭和5年農村不況で漁業に向かうものが多く出る県漁連
1930年代1930年昭和5年佐久鯉の"野沢屋"昭和恐慌のあふりで倒産するコイ県漁連
1930年代1931年昭和6年県:各水系について放流アユの移動範囲、発育常用などを調査するアユ県漁連
1930年代1931年昭和6年琵琶湖の稚鮎を諏訪の六斗河口まで飛行機で運ぶアユ県漁連
1930年代1931年昭和6年満州事変が起こる県漁連
1930年代1932年昭和7年諏訪湖の共販が本格的になる県漁連
1930年代1932年昭和7年県漁連、農村不況対策のひとつとして鮎放流を盛んにするよう県議会に依頼をするアユ県漁連
1930年代1933年昭和8年上小組合:共販性を設ける県漁連
1930年代1933年昭和8年下伊那組合:泰阜ダム工事現場下でアユ、ウナギの遡上魚を掬(すく)い上げて上流に放つアユ、ウナギ県漁連
1930年代1933年昭和8年下伊那漁業組合:矢作電力との間に電源開発と漁業の共存共栄につき覚書を交換する県漁連
1930年代1933年昭和8年臨時的漁業組合例が発せられて出資組合への移行が始まる県漁連
1930年代1934年昭和9年県漁連:水産五ヶ年計画を立てる県漁連
1930年代1934年昭和9年見会、水産試験場と放流種苗センターを兼ねた機関の設置について知事に意見書を提出する県漁連
1930年代1934年昭和9年この頃、発電会社と漁民との間に紛糾が続く県漁連
1930年代1935年昭和10年この頃より副業としての養魚から企業としての経営に進む傾向が高まる県漁連
1930年代1936年昭和11年養魚池及び庁舎・附属建物を現在地(安曇野市)に新設水試沿革
1930年代1936年昭和11年諏訪湖のワカサギ生産が北海道・八郎潟に次ぎ全国第第3位となるワカサギ県漁連
1930年代1936年昭和11年諏訪湖ワカサギの佃煮が始まるワカサギ県漁連
1930年代1937年昭和12年木曽川ふ化場(現木曽試験地)を木曽郡木曽福島町川上に設置水試沿革
1930年代1937年昭和12年支那事変が起こる県漁連
1930年代1937年昭和12年この頃、明科養鱒場が東洋一の施設を誇る県漁連
1930年代1937年昭和12年国鉄信濃川発電所補償問題が5年ぶりに解決する県漁連
1930年代1937年昭和12年諏訪湖組合が無限責任組合となる県漁連
1930年代1938年昭和13年長野県明科魚類増殖場を長野県水産指導所と改称水試沿革
1930年代1938年昭和13年国家総動員令が発せられる県漁連
1930年代1938年昭和13年帝水、大水、全漁協ら話し合い戦時統制団体としての全漁連が結成される県漁連
1930年代1938年昭和13年発電所補助金を以って信濃川魚族振興基金が県に設けられる県漁連
1930年代1938年昭和13年明科養魚場が県水産指導所になる。各漁協漁業補償料を割いて協力をする県漁連
1930年代1939年昭和14年上小地方でアユの人口養殖に成功するアユ県漁連
1930年代1939年昭和14年県漁連出資組合に移行し専務制をしく。県漁連
1930年代1939年昭和14年鉄道省の千曲川千手発電所ダム完成県漁連
1930年代1939年昭和14年全漁連-県漁連ー単組の戦時統制系統が確立され、県漁連銃後方向を宣誓する県漁連
1940年代1940年昭和15年長野県水産試験場(現諏訪支場)を下諏訪町下の原に設置水試沿革
1940年代1940年昭和15年長い間本県養魚をリードしていた水田養鯉が後退し、池中養殖が先頭に立つコイ県漁連
1940年代1940年昭和15年下諏訪に県水産試験場が設けられる県漁連
1940年代1940年昭和15年主食配給制となる県漁連
1940年代1940年昭和15年大政翼賛会下部機構として県水産協力会が組織される県漁連
1940年代1940年昭和15年受配系統機関として南信養魚組合が組織され、河川組合との間に対立問題が起こる県漁連
1940年代1940年昭和15年鯉出荷統制となるコイ県漁連
1940年代1940年昭和15年関東軍信州鯉を大陸に送り北支に養殖業を開発しようとするコイ県漁連
1940年代1941年昭和16年東電との千曲川西大滝ダム補助問題を解決する県漁連
1940年代1941年昭和16年飼料の干蚕蛹、魚苗配給制となる県漁連
1940年代1941年昭和16年養鯉生産者が増すコイ県漁連
1940年代1941年昭和16年アユの公価がきまるアユ県漁連
1940年代1941年昭和16年12月8日太平洋戦争に突入し、戦線詔勅を拝し県漁連決意を声明する県漁連
1940年代1941年昭和16年掦子江(ようすこう)の草魚が本県に初めてくるソウギョ県漁連
1940年代1941年昭和16年農林省水産試験場上田分場できる、各漁協漁業補償料を割いて協力する県漁連
1940年代1941年昭和16年餌料窮迫のため誘蛾灯の虫を集めて餌とするよう農林省が推奨をする県漁連
1940年代1942年昭和17年諏訪湖に漁業報告推進隊が結成される県漁連
1940年代1942年昭和17年戦争によって海洋漁場を失ったため政府は内水面養殖に頼らざる得なくなり、養殖重点主義を打ち出す県漁連
1940年代1942年昭和17年県養鱒推奨均制度を設ける県漁連
1940年代1942年昭和17年県下の業者ら川魚自粛価格を申合す県漁連
1940年代1942年昭和17年この頃、川魚の生産が盛んになる県漁連
1940年代1942年昭和17年餌料・稚魚ともに集まらず、ぜいたく魚として鮎養殖が絶えるアユ県漁連
1940年代1943年昭和18年県水試南佐久採苗所ができる県漁連
1940年代1943年昭和18年川魚生産者が増す県漁連
1940年代1943年昭和18年県漁業増産報国手帳をつくり増産と供出を呼びかける県漁連
1940年代1943年昭和18年政府川魚についても公価を決める県漁連
1940年代1944年昭和19年長野県水産試験場南佐久採苗場(現佐久支場)を南佐久郡野沢町跡部に設置水試沿革
1940年代1944年昭和19年生蚕蛹も統制となり養殖が不可能になる県漁連
1940年代1944年昭和19年魚類供出が進まず県漁連
1940年代1944年昭和19年一尾の魚を求めて釣り人が川々に殺到する県漁連
1940年代1944年昭和19年水産業団体法と主要水産物生産令を緊急公布し、地区漁業組合は漁業会となり、養殖業者組合の旧漁業権補償証券交付さる。本県の総額五千五百万円全、国第二位琵琶湖を有する滋賀県より多し県漁連
1940年代1944年昭和19年県下の漁場を大幅に整理し湖五、河川十七の新漁業権免許さる県漁連
1940年代1944年昭和19年単協に共同漁業権管理連絡協議会設ける県漁連
1940年代1944年昭和19年長野県漁業調整規則公布さる県漁連
1940年代1944年昭和19年県漁連内に漁業権証券資金化委員会できる県漁連
1940年代1944年昭和19年諏訪湖真珠養殖を試む県漁連
1940年代1944年昭和19年廃物同様に扱われていた諏訪湖のゼニタナゴ加工始まるゼニタナゴ県漁連
1940年代1945年昭和20年長野県水産指導所(現本場)を長野県明科水産指導所と改称水試沿革
1940年代1945年昭和20年長野県水産試験場(現諏訪支場)を長野県諏訪水産指導所と改称水試沿革
1940年代1945年昭和20年長野県水産試験場南佐久採苗場(現佐久支場)を長野県諏訪水産指導所佐久ふ化場と改称水試水試沿革
1940年代1945年昭和20年長野県水産業会を結成し、決戦の決意を宣言する県漁連
1940年代1945年昭和20年中央水産業会-県水産業会-地区漁業会、池中特別漁業会の統計決戦体制ができ上がる県漁連
1940年代1945年昭和20年養鯉生産危胎に瀕するコイ県漁連
1940年代1945年昭和20年8月15日、終戦となる県漁連
1940年代1946年昭和21年上小漁協会漁業権の開放を、市民に迫られ、つづいて各地の漁場開放の声が起こる県漁連
1940年代1946年昭和21年県:水産復興計画を立てる県漁連
1940年代1946年昭和21年諏訪に漁業民主化懇談会が開かれる県漁連
1940年代1946年昭和21年県経済部食糧水産課となり水産の地位が高まる県漁連
1940年代1947年昭和22年長野県水産指導所、同諏訪支所、同佐久支所、同木曽川ふ化場と改称水試沿革
1940年代1947年昭和22年戦後インフレに沿って漁業補償金臨時増額運動を起こし会社側もこれに応える県漁連
1940年代1947年昭和22年民主化漁業法の制定にあたりGHQは、内水面漁業には漁業権を認めないとの声あり、よって全国内水面は立って獲得にもう運動を起こす県漁連
1940年代1947年昭和22年県水試南佐久採苗所が県水指佐久支所となる県漁連
1940年代1947年昭和22年日本淡水漁業振興会を組織県漁連
1940年代1947年昭和22年千曲川水系鮭・鱒が姿を消すサケ・マス県漁連
1940年代1948年昭和23年犀川水系各組合から代表を送って東電西大滝ダムの魚道の完全利用を監視し、協議の結果改造した魚道によって鮭・鱒。鮎の上流放流を行うサケ・マス・アユ県漁連
1940年代1948年昭和23年日本民主化のための水産業協同組合法が公布される県漁連
1940年代1949年昭和24年水協法に依り各漁業会は協同組合への組織替えを急ぐ県漁連
1940年代1949年昭和24年戦後統制団体にあたる中央・県水産業会が解散。それぞれ漁業協同組合連合会となる県漁連
1940年代1949年昭和24年農林省水産試験場上田分場淡水区が水産研究所上田支所となる。県漁連
1940年代1949年昭和24年県水産試験場水指諏訪支所となり温泉利用の鮎人口フ化養成に成功アユ県漁連
1940年代1949年昭和24年県養殖漁業協同組合を結成県漁連
1940年代1949年昭和24年新漁業法衆議院を通過させるも、河湖組合に漁業権が与えられない内容を知り、全国の組合が猛反対に立ち上がり、先づ参議院を動かしGHQに陳情して漸く同院の修正議決を実現して衆議院に回付し、その再議決となる県漁連
1940年代1949年昭和24年11月、新漁業法成立内、水面組合にも従来通り漁業権を与えられる県漁連
1940年代1949年昭和24年全国内水面中央協議議会ができる県漁連
1950年代1950年昭和25年新漁業法が施行され、2年後には旧漁業権の消滅に対し政府補助し、新漁業権を夫々手続きを経て関係組合が取得した県漁連
1950年代1950年昭和25年新漁業法により新たに県内水面漁場管理委員会が設置される県漁連
1950年代1950年昭和25年県経済部特産化水産係となり、課名から水産の名前が消える県漁連
1950年代1951年昭和26年旧漁業権の解消に伴う補助金増額運動を起こして成功し、県保証委員会を各組合への配分額を決定する県漁連
1950年代1951年昭和26年千曲川水系に全国初の子供漁業組合(申合せ)ができる県漁連
1950年代1952年昭和27年県、初めて東京銀座"松坂屋"に信州ニジマスの東京進出のための展示即売会を開くニジマス県漁連
1950年代1952年昭和27年ニジマスのアメリカ輸出が始まるニジマス県漁連
1950年代1952年昭和27年西大滝ダムの改造魚道に絶望、掬上機を廃止し、魚道の通水を廃する。鮭、鮎、ウナギなど遡上魚が絶える。サケ・アユ・ウナギ県漁連
1950年代1953年昭和28年漁業権免許料徴収法の廃止、新漁業権の免許徴収法の廃止運動功を奏し、全国で70億の負担軽減がされる県漁連
1950年代1953年昭和28年県と組合と個人漁業者の3者の出資により長野県漁業信用基金協会が創立される県漁連
1950年代1953年昭和28年漁業権の資金化が活発となり、県漁連、単協ともに独立採算事業熱が起こる県漁連
1950年代1953年昭和28年この頃から、各組合が競って釣り大会を催す。全国内水面漁業協同組合連合会が結成。県漁連
1950年代1953年昭和28年淡水研上田支所ため池での鯉苗大型化試験に成功するコイ県漁連
1950年代1954年昭和29年農薬、汚水問題が重大となる県漁連
1950年代1954年昭和29年養殖事業次第に盛り返しつつあるとき農薬被害が起こり水田養鯉が衰退に向かうコイ県漁連
1950年代1954年昭和29年長野県養殖漁協より分かれて佐久養殖漁協設立コイ県漁連
1950年代1954年昭和29年水指佐久支所溜池での鯉苗大型量産の起業家に成功するコイ県漁連
1950年代1954年昭和29年佐久間ダムの補助要求のため長野、静岡、愛知三権の関係漁業組合により漁業振興会を結ぶ県漁連
1950年代1955年昭和30年この頃から遊漁者が激増し、遊漁時代が来る。同時に県外から組織的遊漁者が増える県漁連
1950年代1955年昭和30年鮎放流が大いに進むアユ県漁連
1950年代1956年昭和31年県養殖漁協、県漁連に参加する県漁連
1950年代1956年昭和31年長野県信用漁業協同組合連合会が創立される県漁連
1950年代1956年昭和31年この頃全県化に養鱒ブームが起こるニジマス県漁連
1950年代1956年昭和31年佐久間ダム補助問題が解決する県漁連
1950年代1957年昭和32年県水指:ニジマスの河川への放流増殖は不適であり、池中養殖に向かうべきことを強調するニジマス県漁連
1950年代1958年昭和33年塩田町、溜池養殖鯉による新農村建設に向かう。コイ県漁連
1950年代1958年昭和33年この頃から県の三峯川総合開発が始まり、そこでの補助問題が脚光を浴びる県漁連
1960年代1960年昭和35年河湖漁獲が次第に復興し千前20年ごろの生産額を取り戻す県漁連
1960年代1960年昭和35年県水指諏訪支所:諏訪湖上に網生簀(あみいけす)の企業化研究を始める県漁連
1960年代1961年昭和36年寒天検査研究所を茅野市宮川に設置(平成4年に諏訪支場に統合)水試沿革
1960年代1961年昭和36年県:水産近代化資金制度を設ける県漁連
1960年代1961年昭和36年漁業権を組合からとりあげ管理団体に与えるとの議論が起こり全国漁民大会を開き反対運動に成功する県漁連
1960年代1961年昭和36年この頃、ブームに乗って続出した零細養鱒が次第に淘汰される県漁連
1960年代1962年昭和37年県水指を中心に本県さんのニジマス卵が全国的に大きく進出するニジマス県漁連
1960年代1962年昭和37年諏訪湖わかさぎ卵をアメリカに輸出されるワカサギ県漁連
1960年代1962年昭和37年佐久養殖漁協鯉こくの缶詰加工に成功コイ県漁連
1960年代1962年昭和37年遊漁時代を迎えて組合の第三次産業的性格が強まるのに対し、県水指と組合との間に意見対立が生じる県漁連
1960年代1962年昭和37年明科水指ますの餌ペレットを開発する県漁連
1960年代1962年昭和37年明科水指のニジマスを伊勢神宮に献し五十鈴川に放つニジマス県漁連
1960年代1962年昭和37年天竜川組合、三峯川電力より1億円の補助金取得に成功する県漁連
1960年代1963年昭和38年佐久養殖漁協、水指佐久支所の援助と小諸産業KKの協力により新餌料ペレットの開発に成功、県漁連普及に乗り出す県漁連
1960年代1963年昭和38年県養殖漁協明科に輸出鱒の共同加工工場を作る県漁連
1960年代1963年昭和38年信大理学部付属臨湖試験場が諏訪に設けられる県漁連
1960年代1963年昭和38年天皇明科水指をご視察県漁連
1960年代1964年昭和39年漁業法改正、各組合の遊漁料を知事の認可制となり、河湖漁場の開放政策が進む県漁連
1960年代1964年昭和39年河湖漁獲高が戦後の24年100に対し175の指数に増加する県漁連
1960年代1965年昭和40年稲田養鯉がついに長野県統計から姿を消すコイ県漁連
1960年代1965年昭和40年この前後、淡水研上田支所で成功したウグイの稚魚育成が広がるウグイ県漁連
1960年代1965年昭和40年鮎放流量が299万尾となり、県水産市場の新記録を作るアユ県漁連
1960年代1966年昭和41年信州ニジマスが躍進するニジマス県漁連
1960年代1966年昭和41年県渓流性ます類の人口採苗に成功し、河川に放流をするニジマス県漁連
1960年代1967年昭和42年全国内水面漁連、国の協力を得て天竜川河口にアユの人口採苗パイロット事業所を設置するアユ県漁連
1960年代1967年昭和42年県下の河湖・養殖給水産高73,750t(百万貫)を突破する県漁連
1960年代1968年昭和43年諏訪湖の汚濁水問題が重大化する県漁連
1960年代1968年昭和43年県漁連、河湖汚濁水問題についての各方面に陳情県漁連
1960年代1968年昭和43年佐久養魚団地造成が始まる県漁連
1970年代1970年昭和45年長野県水産指導所佐久支所を現在地(佐久市高柳)に移転水試沿革
1970年代1975年昭和50年最初の卵導入 C.peled 20万粒(再計量14.0)チェコスロバキアプラハより羽田空港到着シナノユキマス水試
1970年代1976年昭和51年細かく仕切りをした網カゴを水槽に浮かべる方法及びプラスチックシャーレの身と蓋に細かい穴を開けて水中に吊るす方法シナノユキマス水試
1970年代1977年昭和52年第2回卵導入 C.l.maraena 40万粒(再計量35.5)チェコスロバキアプラハよりシナノユキマス水試
1970年代1977年昭和52年第3回卵導入 C.peled 20万粒(再計量15.4)チェコスロバキアプラハよりシナノユキマス水試
1970年代1977年昭和52年水産庁指定調査研究 「コレゴヌスの種苗生産」シナノユキマス水試
1970年代1977年昭和52年0.1%であった発眼率が、今年は1%になり大きな改善である。あと2~3年で必ず成果が出るシナノユキマス水試
1970年代1978年昭和53年シャーレ中のふ化というのは、径9cmのプラスチックシャーレに受精卵を入れ、吸水後、よく洗卵をして水を入れたものをインキュベーター中でふ卵し、2~5日毎に水替えを行うシナノユキマス水試
1970年代1978年昭和53年第4回卵導入 C.l.maraena 40万粒(再計量37.6)チェコスロバキアプラハよりシナノユキマス水試
1970年代1978年昭和53年第5回卵導入 C.peled 20万粒(再計量30.8)チェコスロバキアプラハよりシナノユキマス水試
1970年代1978年昭和53年ソ連産 C.peled 2.5万粒 水産庁配布シナノユキマス水試
1970年代1978年昭和53年最初の採卵 ペレッド 2,803千粒(発眼卵29千粒 率1.0%)マレーナ 337千粒(発眼卵29千粒 率8.6%)シナノユキマス水試
1970年代1979年昭和54年ポリ広口試薬瓶の底を抜いて逆さにしたジャー式 「水みち」ができ、卵が固まってしまう。シナノユキマス水試
1970年代1979年昭和54年第6回卵導入 C.l.maraena 40万粒(再計量32.3)チェコスロバキアプラハよりシナノユキマス水試
1970年代1979年昭和54年最初の湖沼放流 巣鷹湖(野沢温泉村)3g稚魚1,000尾 50g1年魚300尾シナノユキマス水試
1980年代1980年昭和55年発眼率の向上 ペレッド発眼卵252千粒10.6% マレーナ 118千粒20.3%シナノユキマス水試
1980年代1980年昭和55年第7回卵導入 C.l.maraena 40万粒(再計量19.4)チェコスロバキアプラハよりシナノユキマス水試
1980年代1980年昭和55年浅科大池ふ化仔魚放養(ふ化仔4万尾⇒ 6/6 9.3g稚魚3,500尾)シナノユキマス水試
1980年代1980年昭和55年1980.ふ化仔4万尾⇒ 6/6 9.3g稚魚3,500尾シナノユキマス水試
1980年代1980年昭和55年びん式ふ化器の使用シナノユキマス水試
1990年代1980年昭和55年シナノユキマス種苗供給開始シナノユキマス水試
1980年代1980年昭和55年押野試験池を東筑摩郡明科町七貴に新設水試沿革
1980年代1981年昭和56年1981年35万尾⇒5/25・26 2.89g 10万尾シナノユキマス水試
1980年代1981年昭和56年発眼卵 100万粒達成 ペレッド発眼卵323千粒23.5% マレーナ707千粒24.8%シナノユキマス水試
1980年代1981年昭和56年美笹湖・八千穂村佐口湖に放流 2.3g稚魚8,000尾シナノユキマス水試
1980年代1981年昭和56年4養魚場で試験飼育開始 16,000尾 臼田勝・杉ノ木・八千穂・武石村シナノユキマス水試
1980年代1981年昭和56年皇太子殿下のペリヤジ視察シナノユキマス水試
1980年代1981年昭和56年長野県水産試験場、同諏訪支場、同佐久支場、同木曽川ふ化場と改称水試沿革
1980年代1981年昭和56年長野県水産試験場:本場に魚病指導総合センターを新設付置水試沿革
1980年代1982年昭和57年1982年49万尾⇒6/4 4.69g 14万尾シナノユキマス水試
1980年代1982年昭和57年ふ化場建設110㎡ 23,486千円 ふ化瓶200本 4,413千円シナノユキマス水試
1980年代1982年昭和57年佐久支場ペリヤジ飼育研究班 知事表彰シナノユキマス水試
1980年代1982年昭和57年養魚場に試験飼育依頼 30,000尾 佐久市2件・野沢温泉村・大鹿村シナノユキマス水試
1980年代1982年昭和57年大石川土石流災害シナノユキマス水試
1980年代1983年昭和58年日本特殊プラスチック株式会社とふ化装置の共同開発を行い、現ふ化器及び通水弁の機構、パチンコ玉とビーズを使用した卵収容法、ふ化仔の集魚法が昭和58年(1983年)に完成した。シナノユキマス水試
1980年代1983年昭和58年定置網による稚魚回収シナノユキマス水試
1980年代1983年昭和58年ソ連産 C.peled 1.2万粒 水産庁配布シナノユキマス水試
1980年代1983年昭和58年ペリヤジ養殖技術指針発行(長野県農政部)シナノユキマス水試
1980年代1983年昭和58年女神湖に放流 3.5g稚魚15,000尾 小谷村鎌池に放流 3.5g稚魚5,000尾シナノユキマス水試
1980年代1983年昭和58年稚魚配布開始 14件52,000尾シナノユキマス水試
1980年代1983年昭和58年ペリヤジの愛称を「シナノユキマス」と命名
候補:アルプスマス、信州マス、信濃マス、雪マス、乙女マス、コクチマス、シロマス、白雪姫、など
シナノユキマス水試
1980年代1983年昭和58年採卵量が1,000万粒を超える ペレッド9,240千粒 マレーナ5,350千粒シナノユキマス水試
1980年代1983年昭和58年長野県水産試験場:諏訪支場にアユ種苗センターを新設水試沿革
1980年代1984年昭和59年シナノユキマス(ペリヤジ)養殖技術指針改定(長野県農政部)シナノユキマス水試
1980年代1984年昭和59年稚魚配布量18件217,000尾 高柳生産組合養殖開始(56,000尾)シナノユキマス水試
1980年代1984年昭和59年塩壺温泉ホテルにシナノユキマスの活造り登場シナノユキマス水試
1980年代1984年昭和59年湖沼への放流効果試験の報告書記載始め 女神湖(1983~85) 星見ケ池(1985~90) 和池(1989~93)シナノユキマス水試
1980年代1985年昭和60年塩田養殖漁協の溜池でふ化仔魚飼育 100万尾シナノユキマス水試
1980年代1985年昭和60年稚魚配布量 30万尾を超える(351,000尾)シナノユキマス水試
1980年代1985年昭和60年シナノユキマス協議会設置(会長 飯田求)シナノユキマス水試
1980年代1985年昭和60年本場へ秋稚魚10,000尾 1年魚410kg保管転換シナノユキマス水試
1980年代1985年昭和60年シナノユキマス試食懇談会(県漁連主催 上山田ホテルニュー滝元)シナノユキマス水試
1980年代1985年昭和60年長野県水産試験場:木曽川ふ化場を木曽試験地と改称水試沿革
1980年代1986年昭和61年発眼卵の県外出荷(秋田県20万粒、新潟県10万粒)シナノユキマス水試
1980年代1987年昭和62年高柳生産組合でふ化仔魚からの生産開始(100万尾)シナノユキマス水試
1980年代1987年昭和62年5湖沼に漁業権設定シナノユキマス水試
1980年代1987年昭和62年中綱湖・柳久保池・白樺湖・立岩湖・松原湖に溜池稚魚放流 (浅科大池・塩田より 189千尾)シナノユキマス水試
1990年代1987年昭和62年全雌ニジマス三倍体種苗供給開始ニジマス水試沿革
1980年代1988年昭和63年発眼卵の県外出荷(山形県6万粒、新潟県10万粒)シナノユキマス水試
1980年代1988年昭和63年ユキマス養殖アンケート調査シナノユキマス水試
1980年代1988年昭和63年長野県水産試験場:木曽試験地を現在地(木曽町新開)に移転水試沿革
1980年代1989年昭和64年三倍体作出条件の検討開始シナノユキマス水試
1990年代1990年平成2年発服卵の県外出荷(北海道・福島県・新潟県・徳島県・大分県)シナノユキマス水試
1990年代1990年平成2年養殖技術講習会開催シナノユキマス水試
1990年代1990年平成2年シナノユキマス巡回指導シナノユキマス水試
1990年代1991年平成3年本場からニジマス養殖業者に1年魚を出荷シナノユキマス水試
1990年代1991年平成3年ユキマス養殖アンケート調査シナノユキマス水試
1990年代1992年平成4年発眼卵の県外出荷(北海道・福島県・島根県・愛媛県・大分県)シナノユキマス水試
1990年代1992年平成4年長野県水産試験場:寒天検査研究所を廃止し、業務を諏訪支場へ移管水試沿革
1990年代1993年平成5年11月18日の第10回水産研究総会において、佐久支場から「長野県特産魚シナノユキマス物語の冊子作成について」ということでお諮りしたところ出席者の賛成を得ました。シナノユキマス水試
1990年代1994年平成6年八ヶ岳湯川の濁水災害により大規模な被害を受けるシナノユキマス水試
1990年代1994年平成6年本場及び穂高町の業者等から親魚候補の補充シナノユキマス水試
1990年代1994年平成6年信州サーモンの開発にとりかかる信州サーモン水試
1990年代1995年平成7年仔魚のタライの円形水槽試験シナノユキマス水試
1990年代1997年平成9年タライ円形水槽普及シナノユキマス水試
1990年代1997年平成9年「シナノユキマス物語」深津、塩瀬、佐々木が自薦で編集委員となり、作成シナノユキマス水試
1990年代1998年平成10年「シナノユキマス物語」平成10年3月に発行シナノユキマス水試
2000年代2004年平成16年水産庁の承認信州サーモン水試
2000年代2004年平成16年「信州サーモン」と命名信州サーモン水試
2000年代2004年平成16年稚魚を養殖場へ供給開始信州サーモン水試
2000年代2005年平成17年秋から食用魚出荷はじまる信州サーモン水試
2000年代2008年平成20年全雌イワナ三倍体の研究に取り組む信州大王イワナ水試
2010年代2010年平成22年信州サーモン振興協議会設立信州サーモン水試
2010年代2011年平成23年信州サーモン振興協議会ロゴマーク商標登録される信州サーモン水試
2010年代2011年平成23年信州ブランドアワード2011大賞受賞信州サーモン水試
2010年代2013年平成25年量産化技術を確立信州大王イワナ水試
2010年代2014年平成26年3養殖漁協が地域団体商標取得信州サーモン水試
2010年代2014年平成26年稚魚初出荷信州大王イワナ水試
2010年代2015年平成27年「信州大王イワナ」と命名し、商標を登録信州大王イワナ水試
2010年代2016年平成28年信州大王イワナ振興協議会設立信州大王イワナ水試
2010年代2016年平成28年お披露目会開催、食用魚出荷始まる信州大王イワナ水試
2010年代2017年平成29年信州大王イワナロゴマーク決定信州大王イワナ水試

謝辞

本情報を作成にあたり、長野県水産試験場の皆様のご協力および、長野県漁連・各長野県漁業協同組合の皆様に了承いただきました「長野県水産史」の情報を利用しております。情報公開へのご理解とご協力をいただきまして誠にありがとうございます。